春よ行くな

調子が悪くなると手指や足裏の皮膚を剥いでしまう癖があってここ数週酷くなるばかりでありしまいには一人でいると食事を摂ることさえも忘れてしまいぐったりしていたら以前から大変世話になっている友人がきて僕の好物である柑橘系のゼリーを差し出し充電されていなかったエネループをセットし左足裏の手当を手伝い部屋のゴミ箱の内容物を大きめの袋に詰め替え風のように去っていった
情けなさとありがたさで今少し泣いたところ

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曇り空の土曜下北沢で私以外に共通点のない3人と待ち合わせて悪い芝居という劇団の「春よ行くな」を観劇した、その前後のやりとりも含めてとても良かった、それらを詳細に書き記すことはしないが作品を見る時の環境というのはかなり影響するなあ、以下凡そ感想とは言い難い雑記

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僕は基本的に人は分かりあえないと思っているから人と言葉を交わすと分かったような気になって分かってもらったような気がして嬉しいしでもだから通じなくても悲しい気持ちにはならなくて傷つけ合うよりも閉じてしまうことが一番寂しいとそう思っている

この芝居では人間たちは近づくための言葉で主人公とどんどん遠ざかってしまうし、それなりの誠意を持って対峙しているはずがそれをそのまま言葉にするあまり軽薄になっていくシーンが繰り返される
身に覚えがない人は言葉によるコミュニケーションそのものの機会に恵まれなかったのか或いはそれそのものを諦めている人かもしれない

ラストシーンだが、僕には “彼女が自分の中に宿る春を「殺し」、己を自身の中へ投獄した” ように見えた
言葉によって遠ざかる一方の何かを引き止めるためにそれを捨て、深い闇の中でみた夢を分かりたいと思うのはこれまたエゴなのだろう
ありあまる想像力を持つ人は時に全くそれを備えない人よりも有害なことがある

「分からない」ことを分かる、理解することは難しい
他人には「どうせ分からないでしょう」

山崎さんが言いたかったことにはきっと迫れない
多分何かを明確に言いたくなどなかったのだろうから
でも、分かって欲しくないというのとも少し違っているように思う

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話は4年遡るが僕の卒業制作「消えないでほしい/However, you will forget it 」(IAMAS 2009 作品情報)は忘れたとしてもなかったことにはならないがきっと忘れてしまうことに抗うというようなことをずっと考えて作ったもので、今もまだそれを引きずっている

「起こってしまったことについては取り返しはつかないが物語という形で祈ることはできる」、これは舞城王太郎の著作の冒頭だったっけか

回りくどくなったけれど、僕の中の芯といえるものにいくつかリンクしているものがあって、それだけに今回の芝居は一人ではとても直視できなかった
一緒に観劇してくれた友人たちに感謝している

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記憶は変容するしなにひとつ信じてはならない(ということを信じる)

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優柔不断な友人たちと時間つぶしに入った喫茶店とか、暗転の時に感じた隣の人の息遣い、帰りに寄ったカラオケでGLAYのHOWEVERを歌い終えて一息ついたころ偶然聞こえた隣室のSuperflyのあの曲、明け方の冷たい雨

あの感じ、まだ忘れたくない

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言葉は嘘をつく!