この間書けなかったとあるエセーの感想文に代えて

友人がブログを書くと嬉しい、それがささやかであればささやかであるほどよくて、自意識や利害や様々の駆け引きと離れたところにあるものを見たい

数年前尊敬する知人が言っていた「毎日(或いは定期的に)ブログを書きつけている人間は信用できる」という言葉が響いたことと先日読んだ新潮8月号の岸政彦のエセーを読んでそれを思い出したこととそれについて書くと記しておきながら書いていなかったことも思い出したのだった
 
そうできたらいいなということを確実にするには間に道標となるものを置いてあとは一歩ずつ行く他ないなあなどと言いつつもその場しのぎにヘンゼルとグレーテルよろしく用途には大変不適切なパンを足元に投げつつ今日と明日のことを考えている僕の理想の自分というのは他人からすると大して重要でないことを継続的にかつ執拗に描写し続けることであり例えば毎回同じ無機質な形状を1メートル四方の石材から手のひらサイズに削り出したあと光沢を放つまで磨くみたいなイメージがあるのだがある時期から好きだなと意識してそばにいようと思える人たちが一様にそのようなことをこともなげに出来てしまう人間だったのはやはり憧れというか手が届かない美しさへの羨望とか努力しない自分を棚に上げた嫉妬をこみにして己もそうなるべきだと思っていたからだし大体そのようなことをさらっとやってのける方々は全く違う性質の人間だから合わなくて当然だったのにそれなりに良くしてもらったのに長い時間を費やして未だに僕は何も返せていないのにこんなことをこんなところにこんなふうに忘れないようにと言い訳付きでパンをちぎっては投げちぎっては投げと何れこうしていることすら忘れるに違いないのに定期的にとか憧れとか要らんこと付け足してわざわざ文字にしてしまう自分もいつか赦せるだろうか
 
記憶を見ないふりは出来ても過去は全くなかったことにはならないだなんてって言った数年前の自分を一発殴っておきたい、どうでもいいこと忘れてなかったような顔してるから生きていけるんだよって、恥じらいも薄れつつある今、そのどうでもいい記憶の積み重ねの先にちょっとだけ今と違う後姿を夢見る(物語は未だ始まることなく深い森の中で)
 

新潮 2013年 08月号 [雑誌]

新潮 2013年 08月号 [雑誌]