2011-01-02 笑えよ

1日から2日に日が変わる頃京都にいて、何か美味しいものでも食べようと河原町へ繰り出したのだけれど、入った海鮮居酒屋のスタッフのやる気のなさに驚愕した。注文を書くスピードが遅い、話聞いてない、客に愚痴言い出す、サーブが遅い…よっぽど疲れていたのでしょう、三が日の休みもなく深夜営業なのだから。そう思って少し言葉をかけてはみたものの結局顔色は優れず、他の客にも延々同じような感じで、見ていてなんだかもんやりするので、席を立つタイミングでチップでも握らせようかと思ったものの、そもそもチップってのはサービス料だし、周りのもうちょっと頑張ってるスタッフに施すべきなんじゃないかとか考え出したら、もう怒るべきなのか労るべきなのかもよく分からなくなって、しかし手元に並んだ生うにやら焼き牡蠣がよいものであることは分かったので、口を噤んで淡々と食べた。まあ予想通り美味しかった。人の不幸はなんとやら。

 

 

帰り道、5年前亡くなった親友と最後に訪れた場所に足を伸ばした。彼女のお墓の場所も知らないし、遺された妹や弟と連絡が取れないので、毎年そうしている。

彼女が好きだった杏露酒も赤マルも持ってなくて、弔うというよりは自分の気持ちを慰めに来ているようで後ろめたい気持ちになった。触れた皮膚のずんとした冷たさとか、表情筋が弛緩しきった上死斑が透けてお面のようになっていたこととか、葬式でなぜか歌を歌ったこと、僕自身の力で止められなかったばかりに責めた彼女の父親が後を追うようにして亡くなったこと、それはもう色々を押し寄せる津波のように思い出して、そういう雰囲気に酔って泣いてる自分を俯瞰して余計に気持ち悪くなる。もう二度と身近な人が死ぬのは勘弁だから死にそうな人とは友達になりたくないし、京都にもしばらく来たくないなと思った。時が経っても人の死を整理することは出来ない。走り去る車を追いかけるようなものだ。

 

 

誰かになにか「してあげる」とか「してもらう」とか、そういうことを考えるにつけ、結局は自分の身に返ってくるもの次第なんだなと思う。今月の新潮に載っていた舞城王太郎の「やさしナリン」は身につまされる。胃がキリキリするので再読は来週にする。